限りなく透明に近い記憶
僕がこの町に流れ着いたのはかれこれ12年前になる。どうして区切りとして憶えているのかというと、それまで都心の高円寺で気ままに喧噪のなかを闊歩していたのだが。かの大地震と原発の故障からの放射能汚染の危機に頭を悩ませていた。どこかに湧き水が近くて風の通りがいいすみか、ないかしらって。すると、福生がいいよ、キヨシ君もいるしって共通の友人がお薦めする。そうなんだ、あのキヨシ君が住んでいるんだって、早速下見をするためのアポをとって行ってみる。まだ親しくなる前の始まりのはじまり。
夜着いて、じゃあ町を案内するよってキヨシ君の友人がやってる飲食店をはしごする。小さい町でちょっと歩くと住宅地が見え隠れするけれど、飲んでるひと多いな。第一印象である。僕より飲むペースの早いキヨシ君は割と千鳥足で家に戻り、一宿を世話になった。ふと目を覚ますと、かのキヨシ君は全裸でいびきなのか歯ぎしりなのかわからない音を鳴らしながら、よく寝ている。早朝をいいことに、近所をぶらついてみた。多摩川の土手に立つと、当たるか当たらないかわからない、おぼろげな予感が目の前をよぎる。この町に引っ越すことになるんだろうと。
そう、福生という田舎町でDJをして活気に花を添えていたキヨシ君を、さらに目の当たりにして。いつしか福生近辺ばかりウロウロしていた。結婚をして、何度か引っ越しながらもいつも福生のことが気になっていた。そうそう、結婚する機会に恵まれたのも、キヨシ君がお付き合いし始めてキヨシ君もまた結婚することになる途中、その奥様の友人を僕が口説けたこともただただ幸運であった。
そんな公私の私ばかりお世話になった、キヨシ君が子供ができたのを機に移住した西日本の岡山から、年の瀬に花を添えるべく、凱旋パーティーに帰ってくる。迎えるのは、僕同様、キヨシ君と笑いあって、キヨシ君のいない福生を支えあった仲間たちである。東京のはじっこにある、半分ぐらいの土地は平原の基地が横目にはいる福生の空のしたで、平和とか幸せとか一期一会を嚙み締めあえる夜である。
いままでなかったぐらい、キヨシ君と電話で話した。楽しみで震えているのが声から伝わってくる。12年ひとまわり。携帯もSNSも進化したけれど、地震、放射能の不安は解決されないまま、感染症のパンデミックや理不尽に始まる紛争なんかに、僕たちの生活様式はもう誰のいうことも信じないという世界が確立されつつある。分断は考えるものと考えないもの。分かれ道は感じるかどうかにかかっている。
車、岡山からだと、長野経由で中央高速だと雪のとき大変じゃないですか?って気を遣うと、いやいや四駆でチェーン載せてるから大丈夫。と、一蹴された。もうあとは待つのみである。音楽が大好きでしかたがないものたちの大感謝祭。いくつになっても、音楽が生み出すマジックを僕は信じている。