近くの扉

2022年11月07日

あれっ携帯がない。助手席の妻が明かりをつけて鞄のなかをごそごそ探し始めた。やっぱりない。さっきのお店に忘れてきたんだ。親父の84歳の誕生日を祝いに、ふたりで自分の実家に立ち寄って、帰路途中の食事処で別れたあとだった。妻が携帯電話で、刺身定食をにこやかにつまむ親父の笑顔を撮ってくれていた。

じゃあ、戻るか。高速道路に乗る手前、渋滞を回避して走り慣れない川沿いの真っ暗な直線から、アクセルを緩めてUターンをする。思えば不思議なお店だった。近隣のレストランは夕飯時どこも満席で困っていたところ、妻が見つけて入ったお店だった。初めて足を入れると、醤油と油の香ばしい匂いが漂う小さな居食屋であった。妻は海鮮丼、僕は天ぷら定食を頼んだ。一口つまむと、ほっぺが落ちそうになったので、白子のポン酢仕立て、牛筋煮込みの小皿をさらに追加で頼んだ。

初老のご主人と奥様で切り盛りされているようだ。地元の常連さんもいるようで店内は笑い声が絶えない。ご主人の顔に目を移すと、少し不機嫌そうな面持ちである。目が合うと鈍い光が返ってきた。一見さんに厳しいのかな、と恐縮する。対照的に笑顔で運んでくる奥様を見て、どこかで会った気がしないでもない。

将来の自分と妻の姿を重ねる。まさかな。親父はビールも飲み終え、赤ら顔で妻の小鉢のお新香に箸を伸ばす。忘れ物のないようにね。支払いを終えて、扉を開ける瞬間、耳にこだました。デジャブかな。ごちそうさまと言って扉を閉める。ご主人は帰り際、一度も顔を上げることはなかった。

お店に電話をすると、やはりテーブルに置き忘れていたようだ。急いで来た道を走っていると過去に戻っていくような感覚に陥った。それでも妻と会う前には決して戻れない。暖簾を下したお店の裏側に車を停めた。すぐ戻ってくるから、という妻に、ゆっくり話してきていいよと送りだす。普段せっかちな自分の言葉とは思えず、くすぐったい気分にかられる。かつての地元の静かな郊外に独りで待っていると、もう二度と妻に会えなくなるんじゃないかと不安が襲ってきた。追いかけていこうか?その瞬間、笑顔の妻が戻ってきた。さっきの奥さんが犬と一緒に待っててくれていたよと。

渋滞もすっかり解消されたようで、いつもの帰り道を選んで車を走らせた。気になっていたことを打ち明ける。さっきさ、忘れ物に気をつけてって言ったじゃない。あの瞬間、何か引っかかったんだよね。

うんうん、私も引っかかってたよ。じゃあ、未来から来た人達なのかな?

そうかも知れない、本当にふたりの未来の扉だったのかも。

高速道路に入ると、ドライブミュージックも全快に親父との夕飯時を振り返った。耳の遠くなった親父がテレビの音量をあげているのと同様に、車内は大音量のトランスミュージックに合わせて、笑い声が飛び交った。パーキングに立ち寄り、トイレに向かう際に妻に車の鍵を渡す。個室で落ち着いたあと、水に流して車に戻る。助手席で携帯を見ていた妻に、鍵ちょうだい、と尋ねると。あれっ鍵がない。えっ鍵がないの?ないないない、妻は明かりをつけてまた鞄のなかをごそごそ探し始めた。

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